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#703


祖母の葬儀が終わり一段落するのを待っていたかの様に5月29日に愛犬のルルも逝ってしまった。
享年15歳。

私、とっても溺愛していたので正直悲しみのどん底です。

あんなにいつも近くにいたのに、、、
いなくなってしまった。

去年の10月頃に祖母が肺癌が発見された頃に、ルルも体調を悪くし病院に行った所
腎臓に病気があると言われた。

年齢的に色々とガタが来る頃だろうなと思っていたが、いざそう言われると何とかしてあげたくなり
2週間に1度の病院通いをしてました。

とりあえず病院に行き点滴を打って貰えば元気そうだったので一安心していたのですが
年を越した位からドンドン痩せ細ってきてしまい、4月にはついに寝たきりになってしまい介護生活が始まった。

ご飯、水、おしっこ、うんち、寝返り、痒いとかその他、何一つ自分で出来なくなってしまい24時間の介護でした。
しまいに認知症になってしまったのか昼夜逆転してしまい夜はひたすら夜泣き。
家族で交代で徹夜で介護してました。

最初の1周間を過ぎた頃から、こんな生活いつまで続くんだ、こっちまでおかしくなってしまうぞ!と
イライラしてしまうこともあったが、こんなに小さくなってしまっても一所懸命に生きている姿を目の当たりすると不思議と頑張れた。

祖母も自分で「私が先かな?ルルが先かな?」なんて冗談で言っていたようだが、
自分もとても辛いのに祖母に会いに行くと「ルルの様子はどうだい?」と気にしていた。

祖母の体調が段々と悪くなって行くのと同じペースでルルの体調も悪くなり、
祖母が言っていた冗談もまんざらでもない感じだね。なんて言っていた矢先に祖母が逝ってしまった。

葬儀期間は家族も介護はする事が出来なかったのでいつもお世話になっている病院に入院させた。

27日に葬儀を終えて迎えに行くと、さらに容態は悪化していた。
きっと淋しかったんだろうと思う。

入院中に朝、昼、夜に病院に顔を見せに行っていたが、どんどん弱って行くのを感じた。
でも、どうにも出来ず「頑張れよ。ばぁちゃん見送ったらすぐに迎えに来るからな。」と行って病院を後にしていた。

28日には吠える事も出来ず、ただひたすら苦しそうに息をしていた。
寝たきりになっても食欲はあったのに食事も一切受け入れず、水すら飲まない。
うんちも、おしっこも自分の意思ではなく垂れ流し状態。
それでも一生懸命生きていた。

29日の朝方3時頃に苦しそうな声で泣いた。
少し体の向きを変えてやると、また静かに眠った。

朝9時頃になり10時になったら病院開くから点滴して貰いに行こうと思っていたのですが、
その前に着替えをしたくて一度自宅に帰ってすぐに戻ってくるね!と言い残し実家を出た。

僕が実家の玄関を出るときにルルは最期の声を振り絞って泣いたらしい。

きっと「行かないで!」と呼び止めてくれたんだろうか。

自宅に戻り着替えている最中に実家から電話。

「ルルやばい!早く来て!」

慌てて自宅を飛び出し、実家へ

実家の玄関のドアを開けると号泣している母と妹。

ルルのそばに行くとすでに、、、

ルル最期なのにそばにいなくてごめんな。と抱きしめると
小さく「くーーん」と聞こえた様な気がした。

待っていてくれたのかな。

祖母があんなに苦しそうにしているルルを見て「あんた苦しいでしょ?ばぁちゃんと一緒に行くかい?」
と言って連れて逝ってくれたんだと思う。
そうだったらばぁちゃんもルルも淋しくないよね。

でも、ほぼ同時に二つの命を見送った僕たちは淋しくて、淋しくて仕方がない。

ルルがうちに来たのは2001年でした。

その年に僕が上京した年、母と妹がハワイ旅行に行こうと計画をしていたが
911のテロの影響で渡米出来なくなってしまったのでその旅費で僕もいなくなってしまうので
犬でも飼おうとペットショップで見つけて家族の仲間入りした。
ホノルル空港に降り立つ予定だったけども、ホノルルに行けなかったからホノルルのルルを取って名前はルルにした。

上京すると意気込んでいた僕ですが、新しく仲間入りしてルルのあまりの可愛さに離れたくなくて、
やっぱり東京行くの辞めよかな。。。と本気で考えた事もあった。笑

もう会えないんだな。
淋しいな。。。
#702


肺癌で入院していた祖母が5月24日の午後8時に亡くなってしまった。
享年90歳でした。

90歳で大往生だったね。と葬式では沢山の人に言われたが、
祖母は最期まで「まだ死にたくない。」と病気に立ち向かい、生きることを諦らめていなかった。

当初は何とか年を越しても余命は2ヶ月位と言われていましたが、
祖母の生命力の強さで余命宣告から半年近くも頑張ってくれました。

とても健康に気をつけて日々の食生活からとても気を使い過ごして来た祖母
どうして肺癌になってしまったのだろう、最期まで「どうしてなんだろう?何が悪かったんだろう」と言ってた。

それでも12月から2月位までは本当に癌なの?と思うくらいに元気でした。

とても好奇心旺盛な人でテレビゲームとかもをボケ防止の為によくやっていたので、
病院でも数年前の誕生日にプレゼントしたニンテンドーDSの脳トレをするのが日課で脳年齢は25歳の若さでした。

携帯電話のメールも得意で、テレビで東川町の写真の奴やってるよ。とか、何度かメールが届いた。

暇つぶしで編み物をしていて、子供の分、孫の分、ひ孫の分、病院の先生、スタッフの分の毛糸で作った座布団を毎日忙しそうに編んでいた。

最期の方は癌が全身に転移してしまい、激しい痛みを消すために投与されたモルヒネの副作用で幻覚の世界でも
編み物をしていた様で眠っているが指だけは編み物をしているように動いていた。

朦朧とする意識の中で「まだまだ沢山やりたいことがあったけでも、もう間に合わなかった。。。」と
悔しそうに言っていた。

亡くなる前日に母から「今朝、院長先生にそろそろだと思います。連絡したらいつでも集まれるよう準備だけはしておいて下さい。」と言われたから
最期に顔を見に来て欲しい。と言われたので仕事を抜けて病院へ

この前に行った時は辛そうながらもまだ話しかければ返事もしてくれたが、この時は反応が無かった。
30分程滞在し、手を握ったり、話しかけたりしたけども反応が無かったので、
「ばぁちゃんまた明日来るからね。」と言って帰ろうとした途端に目が開いた。

「ばぁちゃん起きたかい?圭輔だよ?わかる?会いに来たよ」と言うと、
絞りだすような小さな声で「あ、、、あ、、、あ、、、ありが、、、、と」言ってくれた。

それが祖母から聞いた最期の声でした。

24日の夜7時15分頃までは母と妹は病院にいたが晩ご飯の支度をしに一度帰宅した。
7時40分頃に病院から容態急変の連絡があり、皆で病院に着いた頃には祖母はもうすでに一人で逝ってしまっていた。

僕が祖母の顔を触ると祖母の左目から涙がこぼれ落ちた。

ようやく痛みから開放され安らかな顔で眠っていた。
激痛に耐え過ごした日々はそれはそれは苦しい日々だったと思うが、
それでも最期までまだ死にたくない言っていた祖母の事を考えるとやっぱり無念だったんだろうとなと思います。

自分だったら肺癌だと宣告された時点で生きることをとっくに諦めていただろう。と思います。

遺影の写真は僕が撮影した写真を使って貰った。

まだ元気な頃から死ぬときは圭輔が撮ってくれた写真で私は逝きたいと言ってくれていた。

改まって遺影写真として撮影はしなかったけども、優しくニッコリ笑った祖母の顔の写真を遺影にする事が出来た。

葬儀中に参列者の方から「良い写真だね〜」と言う声が何度か聞こえた。
そう言って貰えると自分も嬉しかったけど、でも多分祖母のほうが喜んでくれていると思う。笑

ばぁちゃん良く頑張ったね。
お疲れ様でした。
沢山、沢山ありがとう。
いつか会いに行くからね。
#701
Leica M5 / Leitz Summicron 50mm F2 / ORIENTAL NEW SEAGULL 400

昨日の母の日は母と妹と3人で昼に食事へ行った。

年明けから祖母の病院に毎日通っている母と一緒にお昼を食べたのは久しぶりでした。
一時の和んだ時間でした。

祖母の病室にGWに函館で撮ってきた桜の写真を20枚プリントして壁に展示させて貰った。
とても喜んでくれた。

今日になり祖母の容態急変。
お医者さんからは「来る時が来たようです」との事。

心の準備はして来たつもりだけども、、、
やはりそう簡単では無かったようですね。
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